余命宣告までの経緯⑩ 二度の余命宣告

宇都宮 和紫(♂) • 2020年 11月 27日
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これは母が余命を宣告された日より、わたしが母の闘病生活を思い出しながら、家族としての思いや気持ちを綴った闘病記です。
 
しかし、当然にして家族としての気持ち――わたしの気持ちというはコチラ側から見た一方的なもの。
 医療関係者から見れば、現場を知らない人間の|戯言《たわごと》でしかないのかもしれません。

もし医療に詳しい方、または同じ様な経験をされたご家族の方々から、何かしらのお言葉を頂けたら幸いです。

 

 

 余命宣告までの経緯⑩ 二度の余命宣告

 

 腸の方へ管を入れれば、効率的に栄養補給が出来るという。
 しかし、それだけでは、体力の低下を抑える事は出来ても、回復させるのは難しいとの事。

 

 だから、抗がん剤治療を――いや、癌の治療そのものを中止する事を視野に入れるべきだという言葉が医師の口から飛び出した。

 現状、母の体力で出来る癌治療はないという。
 今回の処置で、上手く体力が回復してくれれば、まだ治療の余地はあるけど、その可能性はかなり低いらしい。

 

 その、事務的に淡々と話す医師の説明に、わたしは一瞬言葉を失った。
 そして、わずかな沈黙の後、そんなわたしに代わり、父が言葉を絞り出すように尋ねる。

 

「癌治療を止めた場合、どのくらい生きられるのか?」と……

 その問いに、医師は顔色一つ変える事なく、モニターに映るCT画像を眺める医師。

 

 そして――
「まあ、おそらく数ヶ月……一年はもたないでしょう」
 と、やはり事務的な口調で、答えが返って来た。

 

 一年……もたない……

 

 その答えに、再び言葉を失うわたし――いや、わたしだけでなく、父と妹も完全に言葉を失っていた。

 その後、少しだけ医師の説明を受け、帰路についたわたし達。
 そして、軽く夕食を済ませ、わたしは早々に部屋へと引っ込んだ。

 

 何もする気が起きず、頭の中を、
『一年もたない……』
 という言葉だけが、ぐるぐると回り続けていた。

 

 とにかく、その言葉を消したい。何かで気を紛らわせたい。
 そう思い、とりあえずスマホへと手を伸ばしたわたし。

 

 しかし、適当にサイトを巡っていても、中々気が紛れる事はなかった。

 そんな中、SNSのグループチャットで見つけた御朱印の写真。

 

 御朱印。お参りか……

 そう考えた時には、もう車の鍵を掴んでいた。

 

 正直、医者でもないわたしは、病気に対して何もする事は出来ない。
 出来る事と言えば、もう神頼みだけである。

 

 非科学的だと笑われるだろうか……? いや、これが他人事なら、わたし自身も笑っていたかもしれない。
 ただ、もう他にする事がないのである。

 

 御朱印の写真を上げていた方に感謝をしつつ、車で四十分かけ市内で一番大きな神社へとやって来た。
 とはいえ、時刻は夜の十時を回っており、神社の灯りは消え、長い階段の上にある山門はもう閉じられている。

 ただ、その神社は、階段の登り口にも大きな鳥居があり、そこにも賽銭箱が置いてあるのだ。

 

 わたしは、財布の中の小銭を全て賽銭箱へと入れ、手を合わせた。
 願う事は、腸へと管を通す処置が上手くいくように。そして、体力が回復していくようにという二つ。

 

 繁華街にほど近く、通行人も多い場所にある神社の登り口。
 そこで、どのくらいのあいだ、わたしは手を合わせていただろうか……?

 とりあえず、すぐ近くにあった二十分100円のコインパーキングに車を停めたわたし。そこで300円を請求されたのだから、少なくとも三十分は手を合わせていたのだろう。

 

 そしてわたしは、次と、その次の定休日にも朝一で神社を訪れ、参拝をした。
 それと平行し、まだ出来る治療が有るのでは? と、色々調べた始めたわたし。

 

 中にはかなり胡散臭いクリニックや治療法もあった。
 そういったモノを除いていき、治療法に対する裏付けを取り、時には論文などにも手を出して行った。

 

 しかし、調べれば調べるほど、後悔の念が強くなっていく。
 そう、その中には、もう少し早く知っていれば――もう少し早く調べ初めていれば、母の症状を止める手段がいくつものあったのだ。

 

 それでも、まだ出来る事はないか? ネットや書店を巡り、時には医師へメールや電話をし、そして約二週間が過ぎた。

 

 そう、二週間かかるという、胃と腸へ管を通す処置が終わる日である。
 そして、その日――十月二十二日。再び病院から呼び出しを受けた。前回同様、家族全員で来て欲しいと……

 

 家族用の説明室へと通されたわたし達。
 やはり前回同様、CTの画像をモニターに映しながら語り始める医師。

 

 何やら言い訳とも取れるような前置きのあと、今回の処置に付いての説明を受けた。

 

 結論から言えば、失敗である……

 

 ただ、医師側の言い分としては、
 胃と腸、両方に管を通すとなると、一本の管の太さが細くなってしまう。なら、通すのは胃だけにして、その分、太い管を通した方が良いと判断した。
 との事だった。

 

 理屈は分かる。
 ただ、CTを見ると、前回は5ミリほど開いていたステントが、今は完全に閉じているのだ。
 あれでは、通さなかったのではく、通せなかったのだろう……

 

 原因は、癌の成長が予想よりも早いという事らしい。
 そして、転移した癌が大きく、そして固くなり、腸を物理的に圧迫しているのだという。

 

 予想よりも早い――予想外。
 本当に、予想外だったのだろうか?

 正直わたし自身、予想はしていた。
 しかし、予想はしていたけど、あえて考えないようにしていたのだ……
 抗がん剤治療が始まれば、まだ道はある。そう自分に言い聞かせて逃避していた現実……

 

 胃の切除から三ヶ月――肺炎から始まり、感染症に合併症。固形物の食事回数は数えるほどで、殆ど点滴での栄養補給。
 そして、個室への隔離やコロナによる面会規制。更には、胃液を吐き続けた二週間で、精神的にもかなりまいっていた母。

 そんな状態が三ヶ月も続いたのだ、身体の抵抗力や免疫力など極端に下がっていただろう。

 

 主治医の先生にとって、どこまでが予想通りで、どこまで予想外なのかは分からない。
 しかし、わたしには医学知識がない分、この状態だと癌が爆発的に増殖するのでは? という危惧があったのだ。

 

 そして、この状況が予想外だという主治医の先生は、更にとんでもない事を口にした。

 

「この状況では、おそらく年を越す事は出来ないでしょう」と……

 

 その言葉に愕然となり、わたしは目の前が真っ暗になったようだった。
 今は十月の下旬――今年は残す所、二ヶ月とちょっとしかないのだ。

 

 つまり、余命二ヶ月……

 しかも、症状に変化が出れば、それはもっと早まるかもしれないという。

 

 母まだ、自分の足で歩けるのである。一時期は35キロを切った体重も今では43キロまで戻り、身長や年齢を考えれば、平均体重とそう変わらない。
 意識や思考、言語もハッキリしているし、最近では顔の血色も少し良くなって来た。

 

 なのに、余命二ヶ月……

 

 前回、余命一年と言われてから、わずか二週間で余命二ヶ月……
 いや、五ヶ月前には、早期発見のステージ1と言われていたのだ。

 その、あまりに早い展開に、わたしは思考も気持ちも全くついて行く事が出来なかった。
 多分、ついて行けていないのは、わたしだけでなく父と妹も同じだろう。

 

 しかし、そんなわたし達を置いてけぼりにして、主治医の先生は次のステップであるターミナルケア――つまり、終末治療へと話しを進めて行った。

 そう、主治医の先生はこの段階でもう、癌に対する治療を考えてはいない――いや、もっと早い段階……多分、吻合部狭窄の処置段階で、癌を治療する事はもう考えていなかったのではないだろうか?

 

 もし考えていたのなら、身体の抵抗力や免疫力など極端に下がっている状態で、成長の早い膵臓癌を五ヵ月も放置はしなかったであろう……

 

膵癌 胃癌 肝臓転移